12月11日(5日目)V. 2種類の関係性が混在する
いろんな方がきてくれるので、そちらの対応をしていると、
忙しさのあまり日記の内容(いま起きていることの把握)が追いつかないのを感じる。
前週に引き続き、来場者の方々に同じ説明を繰り返す時間が続く。
少しずつ説明がうまくなってきたようにも感じるが、
それは同時に、私の説明が「均質化」していっているようでもある。
しかし、作品自体が多層的であるがゆえ、全てを話せるわけでもなく、不安定な感じもする。
これがテンプレートになった瞬間、私は退屈を感じるのだろうか。
ただ今の不安定な説明で不十分かとも思いつつ、私は種として提供しているので、
聞いてくださった方たちの器量でいつかどこかで発芽してくれればいい。
誰かに何かを言われ、その流れでお昼を買いに外へ出た時があったが、
そのときふと、展示会場の外へ出ても、あらゆる物事に関係性は続いており、
「世界は関係性で成り立っている」ということを実感した瞬間があった。
しかし、ここでいう関係性はベイトソンのいう、「関係性」とちょっと混同している違和感がある。
私がこの時に思った「関係性」は縁起に近いもので、この展示会でも意図している。
それは、自らが花壇にさしたバラが次にくる鑑賞者の行動に少なからず影響を及ぼしているという事。「バラをささない」と決断した人の空白の行動もまた、「ささなかった」という決断の痕跡として残る。(USBカメラはそこに空白を認識する)。私のイメージでは、この因果の連鎖が起きる「ノード(結び目)」が未来の世代へ私たちが残せる「地層(あるいは土壌)」の正体ではないか。
ベイトソンのいう「関係性」は前週のAさんの「良好」という言葉から「よい」という意味が抜け落ちて「悪」に「よい」という意味が付随した時だと思う。
(会場では最悪の「危険」判定が続いている。だが、それを「エラー」として直そうとする意欲は失せ、このまま壊れた状態を様子見しようという、妙に落ち着いた心地。)
12月12日(6日目)VI. 「馬力」から生まれる新種の植物たち、そして「花」の正体
状況は相変わらず「危険」の判定が続きやすかったと思う。
アナログ部屋に設置しているUSBカメラはバラの赤のみを抽出して認識する。
来場者が増えすぎて飽和してしまった赤の量を間引きする。という結論に辿り着いていた私だが、
じゃあ、白い裏面にひっくり返したらいいのではないか?ということに気づく。
久しぶりに再会したYさんに説明しながら、一緒に花壇のバラをひっくり返す作業を試みてみる。
展示が始まった当初は、カメラに認識してもらうために「赤は前向きに」と、
無意識に鑑賞者をコントロールしようとしていたが、今の私の考えは変化している。
もうバラバラにやってしまおう。表と裏、秩序と混沌が混ざり合う、バラバラな景色。
案の定、カメラが捉える「赤」の量は減り、判定は「危険」から「注意」へと引き戻された。
システムが死(均質化)に向かう流れに、人間が「認識のバグ」というノイズを注入することで(これを私は馬力という)、新しい動きが生まれた。
今のところ、危険が続いてしまっているので、少し判定が変わると嬉しい。
夕刻、来場者のGさんと会話をする。
私が説明する前に、彼の方から「エントロピー」という言葉が出てきた。
そう、この閉ざされた庭においてもエントロピー(乱雑さ)は増大する。物理学の世界では、すべてが均一に混ざり合った後には何も変化が起きない「熱的死(均質化した静寂)」が訪れるという。
だが、その崩壊のプロセスでは莫大なエネルギーが放出される。では、そのエネルギーは何を作る?
一方、AIのフィードバックも、判定が「危険」になれば同じ言葉を無機質に繰り返すようになる。
AIの視点(情報力学の法則)から見れば、「優良」も「危険」も、等しく均質化へと向かうプロセスに過ぎないのかもしれない。では、このプロセスの時もエネルギーは放出されているのだろうか。
専門家ではないが、なにかここで情報が循環する時に生成される「不可視のエネルギー」が動いているように感じる。アナログの崩壊だけでなく、デジタルの停滞からも生成されるエネルギー。
だから結局、それらは何を作っているのか。
その渦中でバラを裏返し、システムと格闘する私たちの内側には、何かが生まれている。
それは、計算不可能な「経験」であり、「新しい視点」や「物語」だ。それが花であり、そして種になる。ここで、「新しい視点」と堂々と言えるのは、バラの裏に貼ってある、インタビューから抜き出した人々の文節。これがバラの裏面で隣り合うことでコラージュ詩を生み出し、いろんな文章を生み出してくれるからだ。これは、USBカメラは認識できない領域で、今を生きる私たちだけの物語である。
循環により生成されるエネルギーが放出されるその度に、土壌を栄養に生まれては消えていく文章たち。その行為によって生まれる経験こそが、この〈生成の庭〉でいう「花」の正体なのだと思う。そして、そこからまた新たな「種」が生まれ、その種は人々に持ち帰られ、いつかの発芽のタイミングを待つ。
その後、デジタルの部屋で、一時間近く「ケルトのハーブ辞典」を読み耽るKさんの姿があった。
一方で、財団のTさんは、前週に引き続き庭のシステムをどんどん理解していてくださり、「良好」にする独自の攻略法を発見したらしい。教えてくださいと聞いたところ、「秘密」とニヤリとされていたが、やがてそのコツが「一度すべてを抜き取ること」だと教えてくれた。 縦横無尽に庭を駆け回り、システムと戯れるTさんの姿は、まるでこの展示会場という土壌から突然生えてきた「新種の植物」のようだ。
そう思うと、静かに本を読むKさんもまた、ここに根を張る新種の植物に見えてくる。きっと、ハーブ系の。人間もまた、この庭の代謝の一部として書き換えられている。
(「危険」判定に陥りやすいが、たまに「注意」まで持ってくることが可能だと判明する。)
12月13日(7日目)VII. AIの「偏り」と、静止という名の持続
この日、庭の判定は一向に「危険」から動かない。
今週はこのまま様子を見ようと決めたものの、やはりシステムが正常に機能しているのか、
一抹の不安がよぎる。そんな中、ひとつ面白い気づきがあった。
AIが庭の状況を天気予報風にアナウンスする際、「偏りがみられます」という言葉を発していたのだ。
だが、私の肉眼で見る限り、花壇に偏りなど全く見受けられない。
だからこそ、私はそれを「直しようがない」と感じ、同時に面白いと思った。
これは、プログラミングしたパラメータにもよるものだとは思うが、AIがパラメータに基づいて算出する「偏り」と私が肉体的に感知している「偏ってない」には隔たりがある。
AIが見ている景色と、私が見ている景色のズレこそが、この庭が単なるシミュレーションではない証拠のように思えた。もしこれが完璧なシミュレーションなら、私の感覚はAIの正解と同じか、
あるいは単なるエラーとして処理されるはず。しかし、ここでは二つの異なる視点が、解決不能なまま同じ空間に「摩擦」として存在している。その摩擦があることこそが、ここが生きた現実の場である何よりの証明なのだ。
この日はこの展示を深掘りするトークイベントがあった。前作からの思考の変遷を辿り、今作への繋がりを詳らかにしようと試みる。相変わらず私の説明は不安定な種のままだが、どこかでまた、予期せぬ新種の植物が芽吹いてくれることを願っている。
今回の展示はキュレーターのUさんの意向もあり、エコロジーとアートの関係から出発している。
私は、「良い土(=場・都市)」とは豊かな有機物(=情報の差異)から生まれるのだという持論を話した。そして、その差異を生み出すものこそが人間の「馬力」である、と。
ただし、これは「馬力を持つ人間が優位である」という人間中心主義を唱えるものではない。AIの登場はもう抗えない事実であり、それは自然物である人間の営みがもたらした、一つの進化の帰結だ。
だとするなら、私のいう「馬力」というものはこれからAIと共創していくために必要な技術なのではないか。そんなポスト人間中心主義的なあり方について、強調して伝えた。
トークの最後、最近茨木市に引っ越してきたという女性から「止まっていることに対してどう思うか?」という質問を受けた。彼女の日常から生まれたであろうその問いの出処を探りながら、私は自分の仮説を伝えた。
激しく動いているように見えるものも、極限まで俯瞰し「質量同一」の視点で見れば、実は静止しているように見えるのではないか。逆に、今止まっているように見えるものや、彼女が感じる停滞も、決して死んでいるわけではない。それは巨大な持続の中にある、ほんの一瞬の「ため」であり、次の代謝へ向かうための静止なのだ。そう答えながら、白と黒、静止と動が同居する陰陽のマークを思い出していた。
実は、この〈生成の庭〉で使用しているコラージュ文章も、全200文節の素材を使用しているという有限の枠組みの中にあり、その意味では「質量同一」なのである。その限られた質量の中で、どれだけの「ため」と「代謝」を繰り返せるか。それがこの庭の命なのかもしれない。
(トークイベントのため、あまり庭を観察できなかった。バラが飽和しているので間引きが追いついていないようだ。「悪」と「危険」という5段階中下の2つを行き来している模様。)
12月14日(8日目)VIII. 庭師の譲渡と、名もなき工員の誕生
この日は展示会ツアーがあった。高校の同級生も見にきてくれた。
またまた前日と同様、私はトークが終わってから来場者とお話しをする時間が続いた。
そうこうしているうちに、同級生の姿は消えていた。帰ってしまったのかな?と思っていると、廊下を隔てたデジタルの部屋の方から、大量のバラを抱えた財団のTさんが出てくるのが見えた。
Tさんは、前日に発見した「攻略法」をさっそく実践しているようだ。ついにやってみたとの事。
その結果をデジタルの部屋で確認していたらしい。驚いたのは、そのTさんの後ろにツアーに参加してくださっていた二人の女性、そして先ほどまで探していた私の同級生までもが、同じように大量のバラを持って続いていたことだ。ここにいた!
いつの間にか結成されていた「Tさんの庭師集団」。彼らと一緒にアナログの部屋に戻ってみると、全部抜かれて、まっさらになった花壇がある。今は判定は「優良」に戻っているが、こののっぺらぼうの花壇が続くと、判定も「危険」へと沈んでいくのだろう。彼らはバラを再び植え戻し始めたので、私も少し手伝う。
ここで、私は「庭師」という特権的な称号を、Tさんへ明け渡したような感覚があった。入場券用のバラが不足し始めていた私は、庭の整備もそこそこに裏にある事務所に戻った。
会場の裏手、楽屋のような場所で、入場券に使うバラに黙々とステッカーを貼る。
それはアーティストというより、無心に手を動かす内職の労働者のようだった。
表の庭でシステムをハックする「庭師集団」が表の主役なら、私は裏側でこの庭の存続を物理的に支える「名もなき工員」だ 。観察者でありながら、地層の一端を担う裏の労働者へと変容していく。
それはそれで悪くない。
この日、名古屋から来てくださったSさんが「アーティストはノイズを残したがる」という面白いことを言っていた。本来、同じものを過不足なくコピーして供給できる状態を、私たちは「正常」と呼ぶ。しかし、アーティストはそこにノイズを生みたがる、と。それは、丸くて綺麗でホワイトな(均質化された)社会に対する、生存本能のような直感が働いているからかもしれない。そこに摩擦を起こし、形を変容させ続けることで、社会は常に新しく生まれ直しているのではないか。
ふと昔、友人と交わした会話を思い出した。ライブで原曲通りに歌う歌手と、原曲をアレンジする歌手。あるいは、見知らぬ土地へ行っても味の変わらないチェーン店と、その土地でしか食べられない料理。どちらのサービスが「良い」とされるのだろうか、という話だ。
12日のバラを裏返す「馬力」も、13日のAIとの「摩擦」も、そして今日、同級生が「庭師集団」に加わっていたという不条理なバグも、すべては均質化を拒むための大切なノイズだ。摩擦を起こし、形を変容させ続けることでしか、この社会(系)は生まれ続けていけない。
システムに翻弄されたり、あるいはそれを乗りこなそうとバラを手に試行錯誤する彼らの姿を見ながら、ここに参加する人々が、まさに今、この展示を造っているのだと感じることができた。
(庭師集団のおかげで一時「良好」が続く、放っておくと評価は下がる。間引いたバラの量が多くなってきたので、内職部屋へ何本か移動する)
次週に向けて
今週は来客やトークイベントが続き、観察は不規則なものとなった。
しかし、その不規則さゆえに、私が「見ている」間以外の時間にも、庭は来場者たちの「馬力」によって勝手に代謝し、書き換えられ続けていた。
アーティストである私が「観察」という特権を一時的に手放したとき、そこに現れたのは「Tさんの庭師集団」という名の新種の植物たちであり、馬力で生み出された予測不能なノイズだった。
来週末でこの展示は終わってしまうので、今まで以上の混沌を予測できるが、来週はあえて時間を決めて観察してみようと思う。定点観測という「秩序」の視点を持ち込んだら、この自律的に動き始めた庭はどのように見えるのだろうか。