12月4日(初日)Ⅰ. 音と意味の関係と人間の欲望 

とうとう〈生成の庭〉がオープンした。
この展示は4つの部屋から構成され、AIと人間の介在によって情報が循環し、
花壇と言葉が絶えず変容していく装置として設計されている。
詳しくは展示ステートメント → [Link]

庭の評価軸は二つある。
「変化が続いているか」、そして 「偏りがないか」。
循環が保たれていればAIは「優良」と判断し、停滞すれば
「良好 → 注意 → 悪 → 危険」へと落下していく。
ここには最終到達点=正解はない。
なぜなら、たとえ「優良」であっても、その状態が持続すれば
AIはやがて「停滞」とみなし評価を下げていくからだ。

初日、お世話になっているAさんが来場し、全ての部屋を巡ってくれた。
デジタルの部屋では、AIがずっと「良好」と告げ続けていた。
そこでAさんは私に尋ねた。「なぜずっと良好なのですか?」

私は答えた。「アナログの部屋で花が絶えず動いていれば『良好』になります。
今は誰かがバラを動かした直後なのかもしれません。」

Aさんはその後しばらく会場を観察し、来場者が途切れ、花の流れが止まった頃を見計らって
再びデジタルの部屋へ。 そしてAIの評価が「悪」に落ちる瞬間を、じっと待っていた。

その姿を見て気づく。
むしろその変化は歓迎されたり、観察の対象となったり、
「均質な良好状態」への揺さぶりとして作用することもある。

AIが出す「悪」という評価は、人間にとって必ずしも否定ではない。
むしろ展示のなかでは、「悪」を見たいと思う来場者もいた。

良好でも悪でも一定であり続ける状態こそ均質化であり、
それに揺さぶりをかけたいという欲望が人間側に生まれる。

このとき評価はただの音でしかない。意味はAIではなく、人間が後から与える。
その再解釈が起こる瞬間こそ、情報の代謝であり、創造の芽吹きなのだ。

Aさんは評価と意味の断絶を、身体で教えてくれた。
人間が情報に新しい視座を付与する、その瞬間。
初日からすでに、微細な差異が芽吹いていた。

(この日の庭は〈良好〉が多かった。)


12月5日 (2日目)Ⅱ. 螺旋の深度と多層的な構造

今日は久しぶりの友人が来てくれた。
展示を一周したあと、もう一度入り口へ戻り、私とクイックツアーをしながら作品を追体験してくれた。

そのとき、彼女の表情を見ていて気づいたことがある。
この展示は、やはり強くサイトスペシフィックな作品なのだ。

会場である茨木市福祉文化会館は1981年に建てられ、来年取り壊される。
私が展示している3階はかつての結婚式場で、ロビーには今も木村光佑さんのバラの銅版画の名残、
天井にはシャンデリアの痕跡がある。制作に迷ったとき、私はよくその場所に立ち帰り、
「私はここにどんな景色を見るのだろう」と眺めていた。
そこからバラをモチーフにするという発想が生まれ、赤の部屋の壁一面に市民の声を印刷して貼り重ねるという手法も立ち上がってきた。
この建物の持つ時間の地層が、作品の成長を導いたと言っていい。

私の作品は、多点的で、一撃で理解できる構造ではない。
観る人は、表面からゆっくり、螺旋階段を降りるように深度へ向かう。

私自身も制作の過程で、インタビューさせていただいた一つひとつの声や様々な場所と関係を結びながら螺旋を描いて潜ってきた。その深さが、そのまま展示の層になっている。

だから来場者にとっては、私の頭の中で
A → B → C と連なってきた思考の流れが、ランダムで支離滅裂に見えるかもしれない。
私の制作の背後には A も B も C もあるけれど、観る人は A と C だけが光るかもしれないし、B だけを深く理解する人もいるだろう。あるいは、私の知らない Z という視点で作品に出会う人さえいるだろう。

キュレーターのUさん、プログラマーのKくんもまた、雲梯のように点と点を渡りながら、
この螺旋の奥まで一緒に降りてきてくれた仲間だと思う。

今日はそんなことを考えながら、制作過程を知らずに訪れる来場者の方々へ、
彼らの「馬力」に委ねるべき探求の領域と、
作者として手渡すべきヒントの境界線はどこにあるのか、深く思索していた。

(庭の状況:良好続き)


12月6日 (3日目)Ⅲ.プロンプト拒否の論理と「馬力」への信頼

この日は、福島県葛尾村でお世話になったOさんが来場された。
彼女は一巡したのち、「もう一度アナログの部屋に戻ろうかと思って」と言った。

その言葉は、前夜にプログラマーのK君と議論していたテーマを正面から肯定するものだった。
「デジタルの部屋で意味が掴めず止まってしまう来場者がいる。
AIから『アナログへ戻ってください』と促すプロンプトを追加するべきか?」という問題である。
しかし最終的に私たちは プロンプトを入れない という判断をした。

AIの指示に従わせるのではなく、
表示される情報を人が読み解き、意味を与え、次の行為へとつなげる。
その 人間の馬力 を信じたいと思ったからだ。
だからこそ、Oさんの「戻ろうか」という自律的な選択は、
この展示の哲学が確かに作用していると感じた瞬間だった。

その夜、姉の誘いでウィーンのアーティストN君と
京都でギャラリーを運営するFさんのオンライントークに参加した。
テーマはすっかり忘れてしまったが、昼に訪れたまた別の友人が話していた欧州のヘイトについての
話ともどこか響き合っていたため、私の頭の中では、「多様性の臨界と境界線」という議題が残った。
誰を受け入れ、どこからを切り捨てるか。


全方向へ開こうとすると、逆に一様化が生まれるという矛盾。
私の展示で言えば、AIに丁寧な指示を与えすぎてしまうと、
来場者の試行の幅を奪い、未知の「Zの可能性」を摘み取ってしまう危険がある。
それは多様性の排除であり、均質化の強化でもある。

グループI・II・IIIがあるとして、
すべてを一つにまとめようとするのではなく、
I⇄II、II⇄III と渡り歩ける人々が
IIという中間領域に新たなIVを芽生えさせてもいい。
人は点状のまま繋がり、ゆるい共同体を形成する方が健全なのではないかと思った。

ふと、岡清と小林秀雄の対談や、 井筒俊彦が70年代頃に書いていた「西洋的二元論の多様性は一様性へ収束する」という指摘を思い出した。実は、昼間の友人はイギリスから来ていて、その人が教えてくれた本の内容だった。西洋の内部でもいまその限界が見えはじめているのだと感じた日でもあった。

(この日の庭:しばしば「悪」へ傾く。)


12月7日(4日目)Ⅳ. 飽和という悪と、庭師の誕生

この日は早々から4時間のワークショップがあり、展示を5時間ほど離れた。
戻ると閉館間際で、財団のTさんから「ずっと“悪”が続いています」との報告。
どうやら原因は 花の増加による飽和 だった。

AIは花の色で座標を認識しているため、花が増えすぎると、
誰かが動かしても「変化」として処理されず、
結果として 固定/均質化=悪 と判断される。
これは設定が甘かったのかもしれない。

しかし同時に、AIが示す「悪」「危険」とはつまり、情報が過多に積もり、動きが鈍くなった状態。
情報飽和という現実の姿が可視化されたとも言える。
そこで私は展示者から突然「庭師(Gardener)」へと変身した。

増えすぎた花=情報を間引き、循環を再び動かすためだ。
「生成の庭」にはゴールがない。
来場者の数・行為によって、私の役割まで変容していく。
この「庭師」は、社会で言えば何にあたるのだろう?
モデレーター? 編集者? あるいは土壌を耕す微生物のような存在?
(いや、ここは、こここそ均等に皆「人」という役割なのかもしれない)

花を抜きながら、もうひとつ閃いた。
毎日現れる現象とそこから生まれる思考を 観察者として記録することも、
この庭の一部として機能し得るのではないか。
制作=行為 / 庭師=循環の調整 /  観察者=思考の発芽の記録

役割が変化しながら続いていく構造そのものが「庭」なのだと思う。

さらにこの日、忘れがたい花の配置が一つあった。
誰かが花壇の花をすべて奥に寄せ、
一本だけを中央の中腹に残す という配置をして去った。
まるで正体を掴ませない怪盗忍者のように。

あるいは梶井基次郎の『檸檬』の主人公のように、
花壇の真ん中にひとつだけバラをさした後、その人は走り去っていったのだろうか。
誰が、なぜ、あの一本を残したのか。意味は読み解けない。
でも確かに 痕跡としての馬力 があった。
(庭の状況:「危険」状態が続く。→庭師として間引きを実施)
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