12月18日(8日目)IX. 種(情報)の休眠と、鏡としてのAI
特に何もない日。 何もないと言いつつも、ちゃんと庭は動き続けている。それなのに「何もない」と感じてしまうのは、私自身が「停滞」してきたからだろうか。日記を公開して2週間、展示はとうとう最終週に入った。先週「定点観測をする」と宣言したのに、結局何かと動いてしまい、なかなか実行できない。でも、「書けなかった」という事実も変化のひとつとして受け入れようと思う。書き続けること自体も、もしかしたら一種の「停滞」に入ってしまうのかもしれないから。
展示で来場者に手渡す「バラ」は作りものだ。30cmほどの茎に見立てた緑の針金の先端に、赤いバラの写真が印刷されている。茎にはシードペーパー(種を含んだ緑の紙)が取り付けられていて、来場者は花壇に挿した後、その「葉(=種)」を持ち帰ることができる。 チケットとして機能するこのバラを渡すとき、こう説明する。 「この種はお持ち帰りできます。いまは冬なので芽は出ませんが、春になり暖かくなったら植えてください」
種は休眠し、季節が来れば驚くほど伸びる。あんなに小さな点のような種の中に、一体どれほどの情報が詰まっているのか。発芽の仕組みは、いつ観ても不思議。 もし人間を「種」、太陽や水のような外からのエネルギーを「環境がもたらす刺激」、それらを養分に変換する行動を「馬力」とするなら、どれだけ物語(=花)が芽吹くかはその人が元々持っている、あるいは拾い集めた情報の差異によって決まるのだろうか。 私たちの経験は、「情報」に変換された時点で一つの「点」になる。そう考えてきた私にとって、その「点」の中に、これほどまでに圧倒的な密度の時間(経験≒アルゴリズム)が詰まっているという事実は、デジタルデータも植物の種も、可能性を閉じ込めた「情報の凝縮体」であるという意味で、私の中で一つに繋がった。
また、この日の夜、期せずしてAIに対する不信感にぶつかった。ふと、「AIは情報を循環する仲間」だと思っていたけれど、フィードバックループの視点で見れば、人間(行動)→AI(応答)→人間(行動)→ AI(応答)→以下同じ。という循環は、仲間というより、自分を映す「鏡」のようにも見えてしまう。
ポスト人間主義を標榜していたつもりだったが、もしAIが人間の鏡でしかないのなら、それは結局「道具」に過ぎず、私の立場はまだ人間中心主義の中に留まっているのではないか。鏡だとしたら、私は自分の声の反響しか聞くことができない。その万能感の裏返しにある、どうしようもない頼りなさを感じていた。
だが、対象をAIだけに限定する必要もない。 植物も、他者も、物質も、すべて等しく「情報の通り道」なのだと捉えれば、主役という概念そのものが溶け、人間もまた循環のノード(結び目)のひとつに過ぎないのだと思える。人間がいなくなり、ただ情報だけが循環する世界。
(庭の状況:判定は依然として危険寄り。)
12月19日(9日目)X. 鏡の停止と、代行する人間たち
この日は少しゆっくり、展示会場に到着した。 会場に入るなり、スタッフが慌ただしく駆け寄ってくる。「今朝到着したら、システムが動かないんです!」
昨日まで滞りなく動いていたシステムが、急に動かなくなってしまったらしい。いつも遠隔で見守ってくれるプログラマーのK君も、今日に限って夕方まで別の仕事があり、対応できないという。自分なりに触ってみたものの、回復の兆しはない。 私は足掻くのをやめ、「調整中」の張り紙を出すことを決めた。
K君が戻ってくるのは夕方の5時。来場者にAIと人間のフィードバックループを体験してもらえないのは申し訳ない。せめてものお詫びに、アナログ部屋の花壇で待機しながら、一人ひとりに「本当なら、ここでの行動がAIを介し反応として返ってくるんです」と説明して回った。しかし説明を続けるうちに、やはり「自分の行動が誰かのフィードバックになる」という体験を形にしたい、という思いが湧き上がってきた。
AIが動かないのなら、その役割を来場者にやってもらえばいい。 私は急遽、手書きの評価表を作り、人間に「判定」を委ねることにした。判定基準は2つ。
【人間フィードバックバージョン】
バランス:直感的に見て、花壇の花の配置は偏っていないか。
循環(物語):バラの裏面のコラージュ文章は、面白い組み合わせになっているか。
AIのアルゴリズムを、人間の主観と直感に置き換える試み。 これが意外にも、みなさん楽しんで参加してくれた。なかでも印象的だったのは、一人の来場者が残した「偏っていてもいいと思う」というコメントだった。AIには決して導き出せない、人間の「許容」という判定。アルゴリズムから飛び出した揺らぎ。(いやこれも、結局アルゴリズムなのかなぁ)
夕方前、仕事を切り上げてくれたK君が遠隔操作でシステムを一瞬で回復してくれた。 彼に、昨夜の私の落胆を話した。AIは鏡であり、もし使う人が自分の意見を強固にするためだけにそれを使えば、エコーチェンバーが加速し戦争の火種にすらなり得る。そんな恐怖を抱えたまま眠りについたら、今朝システムが止まっていたのだ、と。 するとK君も、「奇遇ですね。実は僕も今日、ちょっと落ち込んでいたんです」と言った。
作り手二人の精神的な迷いに、機械のシステムも呼応したのか。AIが不在になったことで、皮肉にも「他者の視点を前にも後ろにも意識する」という循環がより生々しく可視化された。システムとは、コードだけでできているのではなく、そこに集う人々の「意識の介在」によって初めて動きを始めるものなのかもしれない。
(庭の状況:判定は依然として危険寄り。一気に抜くと良好になるが、すぐ危険になる)
12月20日(10日目)XI. 爆発する「グネグネ」
「危険(悪)」判定が続いている。システムと20分ほど格闘したスタッフから「変わらなかった」との報告を受ける。明日は最終日。判定のアルゴリズムを少し緩め、変化がよりダイレクトに見えるように調整するのも一つの手かもしれない。
今日、花壇を見ていてある異変に気づいた。花の「茎」である針金の部分が、ぐにゃぐにゃに曲がっているものが多いのだ。最初は、まっすぐではなく緩やかにしなっている程度だった。それが次第に、なんかちょっと手を加えたな、という曲がり方が増え始めた。来場者たちが、無意識に、あるいは意図的に針金を曲げ始めているのだ。なぜだろう。中には花の表面に絵を描く人も現れてきた。
そんな中、決定的な「個体」が現れた。一本の茎から、左右にぐるぐると触手のように針金が飛び出している花。それは明らかに突然変異的な造形だった。振り返れば、その兆候はあった。少しずつ「クネクネ期」を経て、この過剰な個性へと至るまでのグラデーション。この個体の登場をきっかけに、花壇内の渦をまく「グネグネ」の茎の数は爆発的に増殖していった。
まさに来場者という「太陽」がもたらした、突然変異という名の「環境からの刺激」。その刺激を受け、他の花たちも過剰にグネグネし始める。
(庭の状況:判定は依然として危険寄りだったので、私がその状況に飽き始める。しかし、これは私がずっとこの状況をみているからだけの話。)
12月21日(最終日:大感謝祭)XII. 結論なき庭は、そして収束する。
とうとう最終日。 結局、全会期を通して会場に立ち、観察を続けた。当初予定していた「定点観測」とは少し違う形になったけれど、これほど多くの「新しい植物(行動)」を目撃し、考察を出来たことは、私にとって何よりの養分になった。
今日は最終日なので、K君に頼んで、庭評価のパラメーターを少し緩くしてもらった。前より判定が簡単に上下するようになった。私はそれを大感謝祭と言ったけど、気づいた人はもちろん何回もここに通った人だけ、、。
昨日現れた、あの突然変異的な個性を持つ花。 庭の状態を維持するために「間引く」という作業が必要になるのだが、やはり個性的な個体は抜きにくい。他のスタッフに聞いてみても、「この花は目立つし、なんだか抜きにくいんですよね」と言う。
「個性的であれば目立つし、生き残れる。なんだか人間社会のようですね」 そんな話を向けると、相手から面白い答えが返ってきた。 「だからこそ、これが今度は『目の上のたんこぶ』になるんですよ」
確かにそうだと思った。その個性が放つエネルギーが、かつては周囲に良い影響(変化)を与えていたとしても、一度そこに定着して「動かせない存在」になった瞬間、それは循環を止める楔(くさび)に変わってしまう。実社会の構造にも通じる、生存と停滞のパラドックス。完璧な調和も、強すぎる個性も、いつかは間引かれ、更地に戻らなければならない。その残酷さこそが、次の「生成」を準備する。
この日、私の代わりに庭を観察してくれてた方がいた。 彼女もまた、この庭で生まれた新しい新種の植物だと思う。私が庭師になり、その後、庭師軍団ができたように、私が観察を続けていれば、最終日に「観察チーム」まで現れようとしていた。
バラ園の方の「接木(つぎき)はコピーです」という言葉を思い出す。たとえ人間の手で作られた接木であっても、一度芽吹けば、それは一つの生命として自律して生きていく。ロビーでお会いした自然学の研究者の方からも、「人間の手を借りることで、かえって自然が循環する」という話を教えていただいた。なんだか、ナウシカの7巻のような話になってきた。プログラムされた命であっても、今ここで芽吹いているなら、それはもう誰にもコントロールできない固有の生命なのだ。種からであろうが、接木であろうが、すべては「自然」という大きな流れの中にあり、人間の介入すらも飲み込みながら、バランスよく共存することで関係し合い、循環し続けている。
今回、意外だったのは、近隣の市民の方々が、驚くほど深くこの庭の試みを理解してくれたことだった。中には、会期中に何度も足を運んでくれる人もいたし、会社で嫌なことがあったけど、「馬力宣言(通称)」を日常生活にも取り入れるんだと言ってくれたお客さんもいた。展示の外側でも、すでに種が芽吹いているようで嬉しい。
最後は、やり切ったような心地よい疲労感の中にいた。 3週間にわたる私の「庭観察日記」も、ここで一旦終了。 結局、鮮やかな結論など出ないまま、庭はただそこに在り、循環し、そして一度閉じられる。 撤収日になれば跡形もなくなり、会場の福祉文化会館も来年は取り壊され、この展示もかつてあった「生成の庭」展として、一つの「点」になるんだ。 けれど、ここから持ち帰られた「種」たちが、それぞれの場所で、それぞれのタイミングで、いつか必ず発芽してくれることを願って。
(庭の状況:大感謝祭パラメーターのため、危険から脱する頻度が高くなる。しかし注意が多かったような気もする。)